概要
-戦前・戦後の激動を生きた芸術家たち-
もの派の李禹煥・齋藤義重・関根伸夫。具体の白髪一雄・田中敦子・元永定正。
もの派の李禹煥・齋藤義重・関根伸夫。具体の白髪一雄・田中敦子・元永定正。
上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一らにより結成された墨人会。
八木一夫・鈴木治・山田光らからなる前衛陶芸家集団、走泥社。
津田信夫・佐々木象堂らが中心となり工芸界に新風を吹き込んだ无型、工人社──
20世紀の芸術表現を刷新しリードしてきたアバンギャルドやモダニズム、
そして現代へ繋がるコンテンポラリー・アートを中心とした展示・企画を展開致します。
定休日:毎週火曜日 営業時間:10:30~17:30須田剋太先生について
須田 剋太(すだ こくた 1906年5月1日 – 1990年7月14日 )
日展特選など現代日本美術展・国際展等で受賞する一方で、
司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵など幅広い分野で活躍。
力強い奔放なタッチで高く評価される。
略歴
1906年 埼玉県北足立郡吹上町(現鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。
1927年 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現埼玉県立熊谷高等学校)卒業。
その後浦和市(現さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。
東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 文展で初入選。
1939年 文展で「読書する男」が特選。
1947年 朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬らと共に新樹会を創設。
1949年 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 森田子龍編の「書の美」に論文を発表する。
以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 現代日本絵画展に出品。米国カーネギー国際現代絵画彫刻展に出品。
1962年 西宮市民文化賞を受賞
1971年 司馬遼太郎に同行し、没する寸前まで「街道をゆく」の挿絵を担った。
1975年 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 埼玉県立近代美術館に全ての油彩抽象画、グワッシュの計293点を寄贈。
1990年 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点を大阪府に寄贈。
1990年 7月14日 84歳で死去。
1906年 埼玉県北足立郡吹上町(現鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。
1927年 埼玉県立熊谷中学校(旧制、現埼玉県立熊谷高等学校)卒業。
その後浦和市(現さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。
東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するも失敗。独学で絵を学ぶ。
1936年 文展で初入選。
1939年 文展で「読書する男」が特選。
1947年 朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬らと共に新樹会を創設。
1949年 抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
1950年 森田子龍編の「書の美」に論文を発表する。
以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
1955年 第3回日本抽象美術展に出品。
1957年 第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
1960年 第1回個展(大阪フォルム画廊)。
1961年 現代日本絵画展に出品。米国カーネギー国際現代絵画彫刻展に出品。
1962年 西宮市民文化賞を受賞
1971年 司馬遼太郎に同行し、没する寸前まで「街道をゆく」の挿絵を担った。
1975年 郷里の吹上町文化賞を受賞。
1983年 「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1989年 埼玉県立近代美術館に全ての油彩抽象画、グワッシュの計293点を寄贈。
1990年 油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点を大阪府に寄贈。
1990年 7月14日 84歳で死去。
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